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網干〜飾磨へ(8)

西の海を見に
布団太鼓に会えるのか?
大阪馴染の有名人の足跡が…

今回浮ドンはデジ1・私はプー太(プジョーパシフィック)
初登場!〜まだまださんは???

人が動けば道が出来る〜
多くの方が動けば街道(海道も)に…
物も人も集積地には、富が集まり
史跡も信仰も残されてます〜
無名のモノにも出会いたいものですわ!
撮影:平成19年04月29日  

揖保川支流を横目に
網干の街中目指して〜

横浜〜黄昏…では無く
網干の余子浜なんですね。

※写真館も立派に!

商店街の花飾り〜
昔は柳の枝に
飾り付けしたそうで
柳の枝は売り物だったそうですよ。

※二股別れ〜
元、水路でしょうか?

右へ〜

※真っ直ぐ通った道筋…
新しく(大正期〜昭和期)に
開発された物?

飾りつけ〜
私は好きなんです!

※鏡遊び〜

エエ感じに抜けた道路

※蔵のバックに
重なる瓦屋根〜

全国に横浜の地名は多いけれど
余子浜は此処だけ?
青森の横浜のルーツは
此処の方たちだそうで。。

※村中有志で
この石碑が建ったんですね。
(後日、網干人さんから勝海舟の碑と
教えて戴きました〜サンスクです!)

魚吹八幡神社の若宮にあたる
船渡八幡神社
昔は船戸(ふなと)とも
書かれた文献が有ると…

※一本一得!

大きな御家…
江戸時代、天領の蔵元として
身分は商人でありながら
名字帯刀が許された家柄でしたと。

※立派な欅の
屋門。。

堤は少し高く盛られて…

元、物資の集積地
だけ有って造りが丁寧な造作でした。

※石灯篭も狛犬も〜

土俵が有りました。
相撲巡業も
来たかもしれませんね。
(後日、網干人さんから、この土俵は
出来て十年位で
少年相撲が行われているとか〜
昨年、地元網干中学の子が
北の湖部屋に入門したとか…
名関取に成って欲しい物です〜ガンバ!)

※力石も〜

神功皇后御神楽の時の
御腰掛けの石だそうで〜

龍の彫り物も立派!

※鬼瓦も流石!

まだまださん
嬉しそう〜

※合祀された御地蔵さま。。

生きていましたポンプ!
手水鉢は由緒正しい物〜

※神社拝殿から
社殿までの渡り廊下。。

上↑の手水鉢の由縁書
(浅野家家老よりの奉納品)
大事にしてや〜

※お百度石〜
他の地方より大きめなんですわ!
(これでも、この地方では普通…)

邨内安全〜
本当にネ!



ノンビリと〜

揖保川の流れ〜
古くは川船、
明治期からは電気鉄道
龍野(新宮)まで物資を運んでました。
今では車ですわな。。

※網干水門
ここから船溜りに
行けたのでしょうね〜
大正期に船溜りは
埋め立てられたとか。。

姫路市最西側、揖保川河口に位置する。
この街、古くから揖保川舟運と
瀬戸内海航路の要衝であり、
揖保川流域の物資の集散地として
繁栄した港町・商業町でしたと。

※ここが船溜りだったのでしょうね〜
(そのまま船溜りで良かったのでは?)

網干の名の由来か?

※今では此処が船溜り。。
川なので北前船は
昔も無理だったでしょうが…
古来より山陽道は、大陸との交流の
幹線でした〜都が江戸に移ってからは
陸路は地味になりましたが…海上輸送は
北前舟のお陰で繁盛したとか。。楽しみ!
山陽電車で終点まで!
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